卒論

  1. 初めに
  2. 小学生時代
  3. 中学生時代
  4. 高校生時代
  5. 専門生時代
  6. 社会人時代
  7. 活動休止について
  8. これから
  9. 最後に

 

 

 

1.初めに

この投稿は自分のオタク人生を振り返り、記録として残しておくものである。

 

2.小学生時代

幼稚園の頃、毎日聞いていたアルバムがある。

母親が作った、ジャニーズのメジャーなシングルをかき集めたアルバムだ。

何の気なしに遊びのBGMとして家で聞いていただけだから、幼稚園の時、既にジャニーズは身の回りにあった。

(A・RA・SHI、NEWSニッポン、希望~Yell~、ギンギラギンにさりげなく、など20曲)

小学校低学年

母親が見ていたカウコンで嵐を見る。二宮くんを見て「あんな坊主でもジャニーズなんだ」なんて思った記憶がある。(悪口)

KAT-TUNデビュー半年程前から、キッカケや理由は分からないが私は赤西担だった。

その頃まだ出てきたばかりで普及していなかったMP3プレイヤーでReal faceを死ぬほど聞いていた。

その時、「この世で舌打ちをしていいのは亀梨くんだけだ」と悟った。

我が子の教育にもこの亀梨法で推進していく予定だ。(予定はまだない)

しかし、気付いたら赤西担でもなくKAT-TUNファンでもなくなっていて、完全フリー状態になっていた。(たぶん飽きた)

小学校四年生

花より男子2放送開始

これがジャニーズ的にも嵐的にも私たち的にも大きいことだったことは間違いない。

小学校中学年ということで、ある程度の夜ふかしは許されるようになった頃、

花より男子2が放送されることになった。

もともと、母親が花より男子の漫画を持っていて、母親は1のドラマも見ていたので、私はマンガで予習をして、2を見ることにした。

あの小学校だけではないと思うが、放送日の翌日にみんなで花男2の話で盛り上がったり、発展して他のジャニーズの話になったり。私自身含め、環境がジャニオタ化し始めていた。

特にバレンタインでは、友チョコ交換をした後に「牧野つくしオーディション」と称して「バレンタインでつくしが道明寺に土星のネックレスを返し、道明寺が川に投げ捨て、それを拾いに川に入っていくつくし」のシーンを希望者は演じた。

そう、友達の家の床にひもでくくったチョコの空箱を置いて、それを引っ張るというアナログにもアナログすぎる手法で今思うとシュールな絵だったと思う。

このオーディションがあったからといって、この後他のシーンをやったりだとか、

みんなで花男やろう!とかはなく、ノリと勢いだけだったと思う。

小学校五年生

私の家で金魚を飼っていた。水垂れ防止の為、下に新聞紙を引いた。

テレビ欄の右上に夏ドラマの宣伝記事がった。「山田太郎ものがたり」である。

これが私の人生を(いい意味で)狂わせた。

ジャニーズに関してはある程度のグループ、名前は把握していたが、

私の履歴と言えば赤西担、花男2視聴者。この程度であった。

二宮、櫻井に関しては名前と顔の一致くらいだった。

山田太郎ものがたりは凄くいいドラマだった。家族全員で見ていた。

が、しかし、事件は既に第一話の序盤で起きていた。

二宮くんの工事現場の先輩に向ける笑顔に簡単に撃ち抜かれたのである。

一目惚れだった。

その日以降、オタク的才能が開花した。

インターネットで「二宮和也」を検索し「嵐」を検索し出演番組を見て

日に日に私はれっきとした嵐ファン、二宮担となった。

初めて買った雑誌はポポロ。貯めたお小遣いを持ってお父さんと買い物に出かけた。初めて買った雑誌、今でもどんな写真でどんな企画ページでどんなビジュアルでどんな衣装だったか、思い出せる。

一方学校でも友達がジャニオタになっていった。

嵐を筆頭に関ジャニ∞やHey!say!Jumpなど幅広くジャニオタが生まれ、私自身も嵐以外にもジャニーズに関して深く入っていった。(錦戸大倉かじってたっけな)

休み時間はCDをかけ、シングルがリリースされればみんなで振りを覚え、

行動力や経済力は無かったが、身内でジャニオタを楽しんでいた。

小学校六年生

嵐も私も私の友達も全盛期だった。

嵐はドームツアーを行い、個人の仕事もひっきりなしに続いた。

花より男子F公開、ジャニオタ友達と見に行き、大野初主演ドラマ魔王、毎週友達と楽しみにしていた。夏休みを挟むと友達と会う機会も減るので、早く語りたくて夏休みがもどかしかった。そして秋になり、二宮くん主演ドラマ流星の絆が放送開始。とにもかくにも、あの小学校のジャニオタ達は本当に忙しい一年だったが、本当に楽しかった。

 

3.中学生時代

中学一年生、新しい環境、新しい友達、ジャニオタ友達を増やすため、入学当初から嵐ファンは公言していた。

ある秋の日、幼馴染から電話があった。「嵐のチケット4枚あるんだけど行く?」とのことだった。その子は母親と行く予定だったが、幼馴染4人で行っておいでとのことだった。母親に相談したら、「お父さんがいいって言ったらいいよ」と、言われたので、仕事中なりふり構わず電話をして承諾を得た。電話を切ったらなぜか泣いていた。行ってもいいと言われた安心感なのか、嘘か本当か分からないこの現実に戸惑ってなのか。

後日談だが、両親はライブに対してのイメージがロックバンド系のライブに偏っていて、立ち見座席番号なしの危ないものを想像していたらしい。(今となっては私がはしゃぎすぎてペンライトを隣の人の頭にぶつけてしまうほど、私自身が危なくなっているが。)

そしてやってきた2010.01.16。誘ってくれた友達のお母さんがナゴヤドームまで送ってくれることに。約二年間幼馴染で盛り上がったオタ活。車内で既に嵐を歌ったりして、初めての生の嵐にテンションも最大になって行った。

実を言うと公演自体はあまり覚えていない。感謝カンゲキ雨嵐でフライングで登場する嵐をみて、「今ここにいる嵐はクローンではないのか」と疑っていた。大好きだけど人気な嵐に私がお目にかかれる訳がないと疑っていた。好きな曲、何回も聞いた曲、それが生で見れていることにただただ驚いていた。だけどうっすら覚えているのは二宮くんのギターソロ、言葉より大切なもの。これはさすがに沸いた覚えがある。その頃には沸いたなんて表現はなかったが、今言うなら完全に沸いた。

初めての生の嵐を見て、嵐がもっと好きになったし、もっと応援したい、もっとファンとして何かしたい!と、5×10のライブ参戦をキッカケにジャニオタ街道を走る自分は加速していった。

中学校二年生、本気愛という言葉が出てきた。今でいうリアコってやつだ。

某中島担(当時)、某櫻井担(当時)、某山田担、みんなで自担を愛でていた。

この頃は何も考えずにやりたい放題で毎時間友達に手紙を書いたり、教科書で隠してduetを読んだり、放課中にうちわ作成をしたり、放課後の部活動をほったらかして教室の床にチョークで円を描いて、黒板消しを小さなモップで弾くという即席VS嵐をやっていた。(床のチョークは綺麗に消しました。)

その他にもマジカルバナナやダイラタンシー、嵐にまつわることばかりやって遊んでいた。

そんな中、初めて嵐のファンクラブに入会。次のツアーを期待していた。

いざ決まったツアー「君と僕の見ている風景」朝から当落の電話をかけまくり、いざ繋がったら自名義は落選だった。その後は泣いていた。幼馴染の大野担から電話があり、落選だったことを伝えると、「私当たったから一緒に行こう」と誘ってくれた。女神にしか見えなかった。ライブ二回目、その頃にはジャニオタ友達も増えていた。夜中2時に集まり、ジャニオタ友達8人弱でグッズ並びにナゴヤドームへ向かった。眠かったし寒かったけど、初めての徹夜グッズ並び、販売開始時間までみんなで楽しく過ごしていた。ライブはというと、幼馴染の大野担と会議を重ね、担当カラーで身を包み、ジャニオタ全開で参戦することになった。

リアコ駆け出し期に聴く生の「Dear snow」はやばかった。(語彙力)

中学校三年生

受験生のこの年、私はライブ禁止令を出された。自名義で申し込みはしなかったが、櫻井担の友達が私の分も含めて応募してくれていた。当たったらその後のことはその時考えればいいと思っていた。が、しかし当たってしまった。

座席によってはお断りしようかと思っていたがなんとアリーナだった。

5×10、風景魂共にスタンド40列前後だった私には千載一遇のチャンスだった。

行くしかないと決めた私は綿密な計画を練った。

その日の一日の流れはもちろん、スタンドはナゴヤドームのサイトで見れるが、アリーナは未知の世界だった。ネットで過去のアリーナ座席表や、今回の美世界魂の他の会場のアリーナ構成も含めて、名古屋のアリーナ構成も予想した。私の予想だと、B9ブロックは花道サイドだった。しかも、私が持っていたチケットの番号は花道真横だった。

ライブ当日、計画は無事成功しナゴヤドームに入った。アリーナ座席構成予想は正解だった。メインステージはすぐそこで花道真横、歩いてきたら3m無い程だった。

開演後間もない二曲目で早くも花道を歩いてきた嵐。二宮くんはこちらサイドを歩いていて、右手は相葉くんの肩に手を置きながら左手はマイクを持っていた。私の前を通る直前、こちらに気づいてうちわに視線を移したあとに笑顔でピースして手を振ってくれた。その時は二宮くんのパートではなかったが、マイクを持ちながらでピースもしにくそうだったが、本当に本当にビックリっていうのと、この距離というのもあって確信的なファンサだった。このファンサもそうだが、何よりこの日は二宮くん最高のビジュアルだった。マジで王子様だった。世界観やセットリスト含めてこのツアーは強烈な想い出として残った。

 

4.高校生時代

高校一年生、これまた新しい環境、新しい友達、ジャニオタ友達を増やすため、入学当初から嵐ファンは公言していた。

携帯を持つようになり、SNSでのオタ活がメインとなった。

Twitterでタグを利用したりフォロワーさんとも仲良くなって初めて24時間テレビの時に久屋大通でオタ活をした。いつもはTwitterだが、初対面のジャニオタとオタ活するのは初めてで楽しかった。ここからライブに向けて、色んな人と出会い、絡んで、アラオケやロケ地巡りなど、輪を広げていった。そんな中で仲良し3人組で、お揃いコーデで参戦することにした。が、チケットは全滅の状態だった。しかし、縁あって二人と一人に分かれてしまったが、三人とも参戦することができた。

ここで私のSNSでのオタ活がいったん落ち着く。

高校二年生、同じクラスの櫻井担と仲良くなり、毎日LINEするようになった。バラエティや歌番組はもちろん、ドラマ中でもお互い沸いていた。ライブが決まってチケットも確保。二人で買い物に出かけ、参戦服やうちわを揃えた。私の夢でもあった、「現役中に制服参戦」が叶った。名古屋がツアー初日だった。参戦したのは初日と三日目で初日の一曲目がBreathlessで自分でも驚くほど沸いた。ダンスナンバーは後半、挨拶のパートの少し前というのが嵐のライブのなんとなくの流れであるので完全に油断していた。

からの「愛し合おうぜ名古屋!」という二宮くんの叫びでスタート。生きててよかったと思える瞬間だった。このツアーは色々あったがそれでも楽しかった。

高校三年生

専門学校への入学が決まっていた私は、高校三年生の割に平凡な生活を送っていた。

だから相変わらずオタ活をしていた。

高校入学後一番仲良くしている二宮担がライブを当ててくれ、なんと誘ってくれたのだ。

このライブが私のライブ参戦歴史上最高のもので忘れられないライブとなる。

この日も制服参戦で二宮和也4連でアピールして行こうということになった。

座席はアリーナで、通路反対側に厄介そうな二宮担がいたが、その心配は後になくなる。

入場後、メインステージのモニターを見るとメンバーカラーの5つの丸とその中に数字が表示されていた。メンバーのリアルタイムの心拍数だった。

それが分かった途端、松本潤という人間はなんてヤツだ!と思った。

ペンライトは自動制御装置で制御され、ライブや曲の雰囲気、演出によって色や点滅が変わるものだった。

開演後、登場する嵐と会場内の照明と自動制御されたペンライトが融合した景色はただただ感動だった。言葉にも表せない空間がそこにはあった。一曲目は放心状態だったが、二曲目は私の夢がかなう瞬間だった。頭上がムービングステージを通過。応募して一公演が当たるかも分からない。そんな中で当選し、5万人のなかでも限られた人しか入れないアリーナの一部。とにもかくにも驚きと幸せだった。中でも翔ちゃんの靴の裏が見えて二宮担と二人で興奮した覚えがある。(理由はないし、なぜかも分からない。)

ロッコ通過するときも二宮くんは厄介な二宮担の方ではなく、こちらを向いてくれていたので、二人で二宮和也4連うちわを掲げていたらファンサをしてくれた。最高に目立つうちわはジャニオタの武器である。

Hope in the darknessの前の演出であるフィジカルインタフェースではなぜか泣けてきた。理由はないけど人生でとんでもないものを見てしまった気がした。

メンバー一人一人の筋肉の微細な動きで私たちが掲げるペンライトが反応する。大サビ前のあの光景は一生忘れない。DVDはBlu-rayを購入したが、やはり生で見た感動は忘れられない。

アリーナということもあって、銀テープもたくさん取れたのだが、反省点が一つある。

GUTS!の大サビで銀テープが飛んだので、曲そっちのけで銀テープを取ってしまった。初めてたくさん取れて二人でワイワイしていたら曲が終わってしまった。

これもまた想い出の一つ。

 

5.専門生時代

専門学校に入学し、多忙な日々が続いた。

専門学校は忙しいし、社会人になっても忙しい日々が続くと、この先自分の人生を考え、いつまでジャニオタとして生きるのか?今まではジャニーズに重きを置いて生きてきただけあって、その答えが出ることはなかった。と、いうか分かっていても答えを出したくなかった。

そんな曇り空のような気分の中、秋に行われるツアー、Japonismが決定。

自名義で応募して初めて自名義で当選した。嵐ファンになってから7年以上、心優しい友達に恵まれていたおかげで、毎年落選でも必ず行けていた。初めて自名義で当選した時から少しづつ覚悟はしていた。座席はスタンド3列目。カーブの場所だったので、前に人はほぼいない状態だった。

外周トロッコが来た時に二宮和也4連とファンサうちわとペンライトを両手に持っていた。その持ち方もキツかったが、諦めなくて良かった。トロッコ通過時に二宮くんがこの両手を見て目を丸くした後にピースして手を振ってくれたのだ。その時は平気な顔をしていたが、トロッコが去った後に力が抜けた。その後3曲程は座っていたが、通路挟んで右後ろの4連参戦の高校生くらいの女の子たちが、二宮くんが私にしたファンサのことでずっと悪口を言っていた。その時の私には優越感しかなくて、帰り際も全員の顔をハッキリ見てにこやかに帰った。(性格悪い)

公演終了後も、別の席で入っていた友達から「ニノがひろにファンサしてるの見たよ」なんてLINEも貰って、人生最高!という気分だった。

ここで私はジャニオタとして終わったと思った。

このタイミングでの自名義当選、座席、ファンサ。

これまでにない想い出を二宮くんから貰い、夢は叶った。有終の美を飾った。

 

6.社会人時代

Japonismで有終の美を飾って以来、あゆはぴとあんたいとるは行かなかった。

5×20が決まり、切れていたFCに再入会し申し込んだが落選した。

20周年だけはお祝いしたかった。

チケ流を頻繁に使っていたのでチケ流で買って行けばいいと思った。

名古屋公演初日。冬のボーナスを頂いた。

土曜日は15時から歯医者だった。14時半に到着し、予約時間だった15時には施術を終えてもらい、ナゴヤドームに向かう電車で落札し、名古屋駅で入金し、ナゴヤドームに向かった。

天井席でも隣の相葉担とも仲良くなり、

2年ぶりの嵐、20周年の嵐。その時は純粋な気持ちで祝福できた。

年末の特別番組で嵐や他のジャニーズを見る機会も増え、嵐の20周年を祝福し、他のグループのライブにも参戦してジャニーズを応援しようと思って2019年を迎えた。

 嵐の活動休止を知るまでの私のジャニオタ生活の記録はここで終わり。

 

7.嵐

 ひらがなを覚えるより前に覚えたデビュー曲、

ジャニオタ人生の始まり、

全盛期の一歩手前から国民的アイドルグループにまで登り詰めたこの現在まで応援できたことが誇りであり幸せ。

「しょせんジャニーズ」って何十人にも何十回も言われてきたけど外野の言葉はシカトしてきた。

批判してきた人間も、これだけ大人気で国民的アイドルになれば少しくらい興味は沸くはず。だからこうして現場に数の限りが出てくると「1回くらい見ておきたいな」って思い始めて、後悔する。何かが決まってからでは遅い。

昔から見てきた人間からしてみれば、その辺の蟻以下のにわかになんて嵐のライブ見る価値ないと思っていたが、今は逆。

どんな人間でも一度見て欲しい。なんなら一度でも批判したことのある人間は特に見に行ってほしい。嵐というアイドルグループを超越したあの5人を、5人の絆と空気感、松本潤を始めとする嵐のメンバーやクリエイティブなスタッフが作り上げるライブ。赤字と言われるコンサートでも嵐は毎年利益を生み出し、セットにもこだわりぬく。もちろん、嵐のあの人気があるからこそ、経済的にもあのライブが作り出せる。

応援していることが幸せで誇りだと思わせてくれるような、そんなライブだからこそ、凄く複雑な気持ちもあるけれど、それほど嵐のライブは素晴らしい幸せな空間。

10周年あたりからバラエティ番組も増え、個人でも活躍し、CM契約も多い、

テレビで嵐を見ない日は今でもないが、常にメディアに露出があったからこそ私もジャニオタとして毎日忙しく楽しかった。

バラエティ番組で笑ったり、ドラマで泣いたり、悩んだときは二宮くんの考え方を参考にしてみたり、学生時代の課題も嵐を題材にして成績を頂くこともあった。

小学生の頃から嵐というのは私の毎日であり、人生でもあった。

 

8.活動休止について

 嵐は永遠だと思っていた。

毎年シングルリリースやアルバムリリースやライブは行うが、年を重ねるにつれて、いつしか頻度が減って、悪い言い方、気まぐれおじさんアイドル、みたいになるのかと勝手に想像していた。

それでもたまに出てきて嵐として活動してくれたらそれでいいと思っていた。

NEWS KAT-TUN 関ジャニ∞ タッキー&翼 ジュニア黄金期を担った世代の変化。

NEWS KAT-TUNは何となく感じていたが、すばるに関しては、泣いたし寂しかった。それでも一人として自分の人生を選んだすばるには何も言えなかった。

これからのすばるを、関ジャニ∞を素直に応援しようと思った。

歌広場さんも言っていたけど、「嵐だけはずっとあると思っていた。」

もちろん私もそう思っていた。

が、しかし、ジャニオタとしての勘なのか、少し思い当たることがあった。

前回のアルバム、「untitled」のこのタイトルの意味(次はないのでは?)、ソロなし(なぜこのタイミングでソロなしなのか)、8時だJ、5×20のツアーの嵐のメンバーの挨拶。特に翔ちゃんからはこの世の最後みたいな挨拶だなって思った言葉がたくさんあった。でも20周年だからと思うことにした。

 

そんな不安がチラつき始めた頃決まった「5×20 50公演。」

これが決まった時、思ってしまった。思いたくなかった。それ以上考えるのをやめたかった。

プレミアチケットと言われる嵐のライブ、20周年の今こそ会員全員入れるようにと言っていたが、それはそれで嵐凄いなって思った。20周年だから特別かなって思ったけど

来年からはどうするの?と、20周年今年全員入れたとして来年からはまた例年通りになるのか?

果たしてそれを嵐がやるのかどうか分からなかった。

2019年を迎えて毎日変わらない日々。

友達から噂を聞くこともなく、ネットで噂をみることもなく、

それはあまりにも突然だった。

その日のことについては以前の投稿を見てもらえれば分かると思うが、

もうこればかりは仕方ない、お疲れ様でした。と思うほかなかった。

 

9.これから

 嵐が発表した通り、2020年12月31日まで、ジャニオタとして

嵐ファンとして、二宮担として、全身全霊で応援し、

5人と、ファンの方と、前向きすぎずに素直に楽しい時が過ごせたらなと思う、

今回の活動休止を経て、たくさんの友達に名義をお借りした。

「一生のお願い」とLINEを送っただけで「仮登録は済んだから、あとは振り込んで自由に使ってくれ!」なんて言ってくれる友達もいた。(ほぼLDH担)

嵐同様、

弟「新しいCMやってたよ」

母「今週ライブならダイエットした方がいいんじゃない?」

父「大野くんの夏休みだもんな」

なんて言ってくれる家族、ひたすら語ってくれる友達、

私のジャニオタ人生に関わって協力して下さった方々全員に感謝したい!

と、いう菩薩的範囲まで来た。

 

10.最後に

 私の人生、7歳から常にジャニーズが関わっていた。

同時に、たくさんのジャニオタ友達が出来たり、ネット検索、ネット購入、DVD編集、交通手段や宿泊所の手配など、社会人として役に立つ能力も身に着けた。

嵐を全身全霊で応援し、みるみるうちに国民的アイドルグループに。

その成長過程を見ながら応援できたことが幸せ。

大好きな二宮くんは日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞し、目を潤ませながらコメントを残した時には自分もありえない程泣いた。

他のジャニーズタレントにも、アイドル業だけでなく多方面での活躍を祈っている。

他のグループのライブも見学させて頂いて、ジャニーズのこれからがいつも楽しみだった。

だから嵐が活動休止になっても、他のグループの応援をしても良かったのだが、

私にとっては嵐がTOPで、嵐は何にも代えられない。

生涯ジャニオタでいたかったけど、嵐が一度宝箱の蓋を閉めると言うのなら、私もジャニオタとして、たくさんの思い出が詰まった宝箱の蓋を閉めようと思う。

 

2020年12月31日まで

嵐活動休止、私のジャニオタ人生終了まで

全身全霊で応援し

5人と、ファンの皆さんと楽しい時を過ごせたらなぁって、そう思います。

 

「ステージ上終身雇用」

「嵐はこれで終わりじゃない」

 

嵐の言葉を信じて、いつかまた、5人での姿が見れるのをのんびり待っていよう。

 

 

 

 

 

 

 

”「またね」って言葉を残して離れて行っても確かなこの2年だけは嵐と共に”